新ばし、「鮎正」の夏

 

 

新橋の裏路地。ぽつねんとある、木の引き戸に白い暖簾がかかり『鮎正』の文字が見えた。戸を滑らすと、私たちが座るはずのカウンター席以外は満席である。迎え入れて下さったのは、涼しげな黒地の絽の着物を白襦袢の上にパリッと着こなす、店の女将。カウンター向こうの中央に立たれているのが、女将の弟さんで、この店の店主であり板長である。

 

創業は昭和38年6月1日で、55年前のまさに鮎釣りの解禁日だ。本店は、島根県津和野町日原にあって『美加登家』という。創始者であり、このご兄弟のお父様、山根正明氏が、東京人にも高津川天然鮎の美味しさを知っていただきたいという思いで立ち上げられたのだそうだ。店の名は、正明の“正”をとった。だから『鮎正』だ。

 

 

 

鮎正には、本店から天然鮎が運ばれてくる。日原を流れる清流、高津川で捕れたものだ。高津川は日本でも唯一ダムのない一級河川で、流れが激しいために苔が始終生まれ変わり、新鮮な苔ができる。鮎はその鮮度の高い苔を餌とするので、その香り高さはえも言われぬものなのだ。鮎正では、鮎が1日200本は出るそうだ。だから、高津川のものだけでは量を補えない。山口や広島、岐阜産などの天然鮎も使用するが、いずれも自信を持って提供する上質のもの。しかし、塩焼きでは高津川の天然鮎にはあらがえない。陶器のように美しく透き通った清流の鮎に踊るように串を刺して、塩焼きにする。カリッと仕上がった頭と皮、ふんわりと柔らかな身の食感と、ふくよかだがキレのある味わい。それに鮮度の高い苦味が加わって、その長い余韻に驚いてしまう。それを鮮烈な緑の『蓼酢』でいただいた。蓼の辛味は、「蓼喰ふ虫も好きずき」ということわざが生まれたくらいに、味わいが独特で好き嫌いがあるものだが、この店の蓼酢は柔らかな風味で、まるでバジルの葉で作るジェノベーゼのようだった。聞けば、米酢と米を加えて柔らかく仕立てているそうだ。この柔らかな蓼酢に、鮮烈なくらいに高津川の鮎が合う。

 

鮎清水椀、背越し、煮浸し、酢の物、うるか茄子、鮎ごはん。鮎尽くしの芸術に酔いしれた。また、1年前に仕込んだ、うるかの美味しいこと。この店をこの度私にお連れ下さった楠田枝里子さんは、鮎が好物でいらして、この店の家族、もちろん女将とも40年前に『美加登家』でのロケをされてからの付き合いだとおっしゃる。鮎なしには夏を越せないと、少量のうるかを、やはり上品な量の御飯に混ぜ、本当に美味しそうに食されているのを見て、私も真似ずにはいられなかった。からすみにもにた濃厚さと、塩辛独特の上品な発酵味。塩を足して、上澄みをとるという作業を繰り返してできる1年ものの絶品だ。こうしてまた来年も訪れたくなる。昨年の鮎の残り香を探しに。

 

鮎正 東京都港区新橋4-21-14  03-3431-7448