夢への前哨地

「そこで他に何するんだ?」高橋は僕に聞いた。

「堀切まで行って、ラーメンを食べるだけか?」

「そう、ラーメンを食いに行くだけだ」と僕は答える。こんな猛暑の中、目的としては十分だ。

浅草から5つ目。線路と川沿いに建ってる「みゆきラーメン」で葱ラーメンさ。

 

 

 

この暑さの中で、まず欲しくなるのは塩分だ。汗を補うために。それともちろんあの透き通った味のスープだ。完璧な腕でとった鳥と豚と野菜のだし。脂は少ない。それに場所もホッとする。70年代の板貼りの小さな建物。改札の袋小路にたった一軒佇んでいる。吹き飛んでしまいそうにもみえるけど、もう既にこれだけ長く続いていて、恐らく僕達よりも生き長らえるだろう。店の上には歩道橋が架かっていて、その横にダムがある。向こう側に見える運河が荒川と隅田川を繋いでいる。この店はまさにその細い帯のような地区にある。首都高速が、水平線上を走っている。

 

店の中には、これといったものはない。窮屈な場所に、磨かれたステンレスの厨房、低いカウンターに木の椅子だけ。横長の窓にレースのカーテンがかかっていて、窓越しに高く雑草が生えた空き地が見える。外にはラーメンと書かれた、はためく赤い旗と改札前に記念碑のようにたたずんでいる電話ボックスがある。目にするものといったら、おおよそこれだけ。色あせた場所で簡素な食べ物をだして商売がなりたっている。

 

白髪の白石さんがご主人。腰掛けながらタバコを吸っている。Tシャツにはうっすらと汗のシミができている。分厚い漫画の雑誌を、座布団代わりにカウンターに置いて座っている。白石さんは大きな声で単発的に話す。もしかしたら耳が遠いのかもしれない。ある祝日の夕方、他に客がいない時に、商売はうまくいっているのかと彼に尋ねた。厨房の横に立つ白石さんは、「忙しいね、ありがとよ」と答えた。また静かになり、もう一口麺をすすると、突然「信頼なんだよ!」と叫ぶように白石さんは言った。

 

 

「言っていることが分かるか?」確かに理解してないと一瞬思った。白石さんは話したがっていた。息を吸って言葉を吐くように、「信頼だよ!」と繰り返し、「それを築くには5、6年はかかるんだ」。

「皆心の底で人の印象っていうものを持ってるんだ。ある祝日に、お腹が空いたな、どこに食べに行こうか、と思うじゃないか。そこで、おまえの店に行こうと思うのは、営業してることを知っているからだ。それは信頼関係が築けているからなんだ。もし時々休んだり、不定休だったりすると、客は他の店へ行ってしまう。そう学んだんだ。若い頃は、自分が好きなときに店を閉めたもんだ。ドライブして、遊んでた。でもそうこうするうちに客は他の店へ行っちまった。ウチは個人経営でチェーン店じゃないし、客はいつ店が開いているか分からないんだ。だから毎日営業するようにしている、客に頼りにされるためにね、覚えていてくれるように。うちはそういう商売さ。

白石さんの名前は「住年」と書く珍しい名だ。「父親が決めたのさ。長生きして、家が持てるように、ってね。それでどうだい、部屋も買えたし、この年まで生きてこれた。悪くないだろ?」

 

白石さんは71歳で、店の2階で家族と住んでいる姉と一緒に店を経営している。弟は隣の家に住んでいて、白石さんは自転車でたった数分の距離に住んでいる。戦後、両親は空き地に店を立てた。弁当を売っていたんだ。「そのころは売る物なんてたいした物はなかったから」と姉は付け加えた。煙草にサツマイモ、夏は氷。白石さんは国鉄の事務局員として働いたこともあった。国鉄ではセミプロ野球もやっていた。それで44年前にこの店を開業した。はじめは喫茶だった。

駅から流れてくる人通りがある。改札の外に設けられた喫煙コーナーでたむろっている連中もいる。窓から見ると通りはL字形になっており、角を曲がると、人通りを観察できる。ブルーの階段を登る人、降りる人。サラリーマンとOL、商人、年配の人や学生など。白石さんは、こんな人の流れを眺めるのにいい場所だと言う。

おそらくこの店は風水で良い位置にあるのだろう。南北に抜けており、風通りもよく、3つの流れに近接している。すぐそばに大学もある。窓の向こうで、堤防に沿って電車が音を立てて走っていく。「あの電車は10分に6本は走っているんですよ」と姉は言う。人通りのある場所が好きなんだろう。

白石さんも姉に似て、自分の名前やアパートの話をするにしても、丹念に料理を作る様子にしても、白石さんは常に感謝の気持ちで生きているという印象を与えてくれる。第一印象では少しばかり不機嫌に見えるのだが、みゆきラーメンには、そこにいる人の心を一つにしてくれる空気が流れている。まるで同じ経験を他の人と分かち合っているかのように。先週は、この周りを開拓している好奇心旺盛なカップルと知り合った。赤いバンダナを巻いた中折帽子を被る男と、70年代のヒッピー風なワンピースを着る女。僕に笑いかけて、ビールを注文した。それぞれ違うラーメンを頼んで、丼を交換しあって、それぞれを味見した。二人はその美味しさに驚いていた。ドイツ製のポケットカメラについて話がっていた年配の男性とも出会った。タクシーの運転手もいれば、女子学生達に出くわすこともある。

 

「店を持つ面白さはこれなんだよ、来るいろんな人達。」

このレストランはあるテレビドラマの舞台となったことがあった。身入りの少ない片田舎にある学校で理想主義を掲げる先生の話だ。虐めや同性愛、閉じこもり、あるいは学生の自殺などの問題にぶちあたる。ラーメン屋の批評欄に、このドラマについて掲載されることもあったが、収入に大した影響はなかった。でも白石さんにとってはそれもどうでもいいことだ。もう10年以上前のことだという。

 

白石さんは外を指してこう言う。「あそこの壁がなかったころにゃ、仲間と一緒に川に飛び込んでよく遊んだのさ。あの頃は子供が多かったからなあ。」

「水は汚くなかったんですか?」

「いや。それはもっと後だね、60年代に入ってからだ」

「"爆弾池"で泳いで遊んだものですよ」と姉がつけ加えた。

「この道は、昔は袋小路じゃなかったんだよ。線路のところに踏み切りがあってね、そのまま木でできた橋に続いてたんだ、堀切橋っていって、その向こうが葛飾区だったんだ。どこかに写真があるはずだな。探してみるよ」と白石さん。

 

経済成長のころの発展で、このあたりが砂漠化してしまった。しかし駅はまだこの街で鼓動している。人々の群は波のように、電車が行き交う度に押し寄せたり引いたりする。最低限の生活がある。それ以

ここは夢の孤独な前哨地だ。当たり前な表現だと思いながらも「良い場所ですね」と言った。「知ってるさ。ここは東京だけど、田舎みたいだろ?」と白石さんは返した。